ダボラ・カダブラ

言葉の意味って何なんでしょうね。

意思の疎通とかいいますけど、ほんとに通じあってるんですかね。

「あー、これは何かが、確かに共有されてるなー」とか、思う瞬間だって、ないわけじゃないんですが、たいていの場合、一人が好き勝手なことを言って、別の人が好き勝手なことを受け止める、そんなことだったりするんじゃないですか。

もちろん言葉なんてものは、ただの道具にすぎないんですから、そいつを上手に使って、日々の暮らしに役立てればいいだけなんですがね。

それでぼくは思い出したんですよ、昔、言葉なんて使わないほうがいいんじゃないかって、思ったことを。

ゴータマさんの「ダンマパダ」を読んだりしましてね、言葉なんて使わなけりゃ、すっきりするなあって。

そうはいっても、言葉を使わずになんて、なかなか生きられるものじゃありません。

たとえ一人で仙人のような暮らしをしたからって、自分の頭の中で蠢いている無量大数の言葉どもとはおさらばできませんもんね。

だからぼくは、あいもかわらず、こうしてダボラ・カダブラと呪文を紡ぎ続けるんですよ。

貝が貝殻を紡ぐように、木が年輪を紡ぐように、人間は言葉を紡げばいいんじゃないかと、思いましてね。

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自由に生きる者たちへ

ぼくらは自由に生きてきた

この世に生まれ落ちることも、ぼくらが選んだこと。
いやならば、この世の明かりを見る前に、息を止めてしまえばよかったのだ。

そうしてぼくらは、一瞬一瞬、生きることを選んできた。
誰に言われたからでもなく、自分で自由に、選びとって生きてきたんだ。
一瞬一瞬、生きることを選び、どう生きるかを選び、幸せを求めて、生きてきたんだ。

ところが不思議なもので、ぼくらはいつの間にか自分の自由を忘れ、どうにも不自由な人生を送っている自分に、ある日、気がつく。

こどもの頃の輝きに満ちた、自由な世界はどこに行ってしまったんだろう。
あの永遠に続くかに思われた、限りない力を秘めた時間は、いったいどこへ消えてしまったのだろう。

代わり映えのしない毎日、繰り返される日常、ささやかな楽しみはあっても、どうにも退屈な時間の流れの中で、ぼくらはつぶやくのだ。

あの輝きに満ちた瞬間はどこへ消えてしまったのか、と。

けれども、その瞬間は、実のところいつだって、ぼくらとともにあるのだ。
ぼくらの目が曇って見えなくなっているだけなのだ。

だってそうじゃないか。

ぼくらが繰り返しているこの毎日だって、すべてはぼくらが自由に決めてきたことの結果なんだ。

ぼくらは大人になるにしたがって、輝かしい時間よりは、安定した時間を選ぶようになってしまった。
つまりは、そういうことじゃないか。

ぼくら自身が、自分にとっての幸せの意味を作り変えてきたんだ。

だとすれば、ぼくらはやっぱり自由だ。

今だって自分の幸せの形を、自由に作り変えることができるんだ。

そのために必要なのはほんの少しの勇気だけなんだ。

勇気さえあれば、くすんだ安定など手放して、輝く今をつかむことができるんだ。

すべてを同時につかむことはできないのだから、前に進みたいのなら思い切って手放すだけだ。

その先には自己責任の、自由に生きて一人で死んでいく世界が待っている。

それでぼくは、きみたちみんなのために叫ばせてもらうのさ。

きみたちすべての命に祝福あれ。
自由に生きる者たちに永遠の命あれ、とね。

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自ら死を選ぶ自由について

自殺にせよ、安楽死にせよ、自ら死を選ぶことを誰かにすすめるつもりは毛頭ありません。

けれども、生きていることが苦痛以外の何ものでもなく、もはや死ぬことしか道がないと、もしあなたが思っているのなら、それを否定することなど、誰にもできないことです。

とはいえ、死なずにすむ道を見つけられれば、そのほうがよいでしょうし、この小文がそのための一助になることができたらと思います。

  *  *  *

あなたには、自ら死を選ぶ自由があります。

ということは、逆に生きることを選ぶ自由もあるのです。

死を選びたいと思っているからには、あなたの人生は苦痛に満ちているのでしょう。
たぶん、この世界の不条理を呪っているのかもしれません。

あなたは罠にかかってしまったのかもしれません。

けれども、この罠はたいていの場合、物理的にどうしようもない罠ではありません。

あなたは檻に閉じ込められて逃げられないのでしょうか。

監禁されて、虐待を受け続け、やがて死ぬ日まで、その苦しみを受け続ける運命なのでしょうか。

世の中には、そういった最悪の罠にはまってしまう人も確かにいます。

ナチスが作った収容所のような罠です。

そして、そうした最悪の罠にはまった人たちの中でも、生還する人もいれば、絶望して自ら死を選ぶ人もいます。

ヴィクトール・E・フランクルの「夜と霧」は、自らの収容所体験をもとに、「生還」のためには何が必要だったかを書いたものです。こうした書物にも何らかのヒントがあるかもしれません。

  *  *  *

多くの場合、罠にかかって逃げ出せないというのは、物理的な罠ではなく、心理的な罠です。

あなたは、周囲の人間関係の中で、複雑な網の目に囚われ、身動きが取れなくなっているのでしょう。

そして、その罠から自由になるためには、死を選ぶしかないと思うところまで来てしまったのでしょう。

けれども、もし、あなたが本当は、そのがんじがらめの状況から逃げ出すことができるのだと気がつくことさえできれば、わざわざ死を選ぶ必要はなくなります。

あなたが家族の虐待を受けているのなら、家族から逃げ出せばいいのです。
逃げ出せないと思い込んでいる、あなたの考えこそが、あなたの牢獄なのです。

小さな子どもだったころには、逃げ出したくても逃げ出せなかったでしょうが、今のあなたには、逃げ出すことができるはずです。

自分の思い込みを打ち破ってください。

あなたには、その力があるはずです。

その先には、あなたの自由な人生が待っています。

  *  *  *

自由な人生というものは、決して気楽な人生ではありません。

人間関係でがんじがらめになっていたあなたは、思い切って行動を起こすことで、その重圧から一旦は逃げ出すことができるでしょう。

とはいえ、そこから十分に自由になるには、時間がかかります。

重圧をなつかしく思うようなことも起こりえます。

そして、完全な自由などというものは普通ありえませんし、自由と不自由の間で葛藤しながらも、その中に喜びを見つけていくことこそが、人生というものなのです。

あなたが選ぶ人生が、苦しみをともないながらも、さち多いものとなることを祈ります。

与えられた命の中で、あなたが、最高の輝きを見出すことができますように。

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四楽八楽

百と八つの悩みの種を、抱えて生きてはいませんか。
何かと気に病むことこそ多く、あれこれ悩んでいませんか。

どうせ一度の人生ならば、気楽に生きたいものじゃないですか。
重荷を背負っていくのはやめて、身軽に生きたいものじゃないですか。

そこでぼくは思ったのです。
人生本当に四苦八苦なのかと。

そいつもひとつの見識ですが、ひっくり返せば四楽八楽。

考えてしまうという悪いクセをやめられれば、今までの苦しみなどガラガラと音を立てて崩れ落ちて、見たこともない楽園が目の前に広がっているってことに、気がつくはずなんですよ、この世界の原理からして。

いや、それは実は言い過ぎでして、そうなるのは心がきちんと落ち着いている場合の話でして、心が乱れていたならば、楽園にいるのに気づくのではなく、地獄のど真ん中にいるということになってしまうのが、このうますぎる話の落とし穴でして。

だからぼくらは、道を急ぎ過ぎず、ゆっくりとしっかりと、そしてぼくの場合はだらだらと、遠くを目指して歩いてゆくのです。

気が遠くなるほど遠い道のりなのですが、辿り着く必要なんてないんです。
この道を一歩いっぽ歩き続ける、そのこと自体に意味があるんです。

道端の野の花を愛でながら、風の香りを嗅ぎながら、楽しく歩いていきたいじゃないですか。
悩みの種など数えて捨てて、ゆらゆら歩いてまいりましょう。

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緊張が溶けない

人生って、あんがい難しいですよね。

思い通りになんて、なかなかいかない。

「思い通りにいかないのは、環境のせいだ」なんて、つい考えちゃうけど、実はそれって自分の問題だったりして、そこに気づくのが、ホントに難しい。

おまけに、自分のどこが問題なのか、なんてことを、冷静に見るとなったら、さらにまたまた難しいし、ホントーにいやんなっちゃうくらいですよ、生きてること自体が。

でもまぁ、仕方がないです。

それが人生ってものです。

この難しい人生の中で、溶けない緊張と向かい合うのが、どうやらぼくの運命ということみたいです。

がんばります。

がんがんは、がんばれないので、だらだらと、適当に。

だらだらと、適当にでも、時間をかければ結果は出るって知ってますから。

誰に何を言われようと、だらだらと適当に、続けさせてもらいます、悟りへと向かう、このけったいな道行きを。

そうして溶くことにするんです、この容易には溶けない緊張ってやつを。

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しょせんすべては夢なのですが

人生と言えど、しょせんすべては夢なのですが、夢にも執着するのがヒトという生き物です。

夢で味わう苦しみなど、覚めてしまえばただの幻ですが、見ている最中にはその苦痛のなんとリアルなことか。

逆に夢にまで見たあこがれの状況も、慣れてしまえばただの日常、過ぎてしまえば泡沫(うたかた)の日々にすぎません。

人生の一瞬一瞬が夢まぼろしであると、はっきりと見ることができるでしょうか。

そのようにはっきりと見た上で、一瞬一瞬を大切に生きることができるでしょうか。

とりあえず、毎日楽しければいいじゃないかって?

それは確かにそうですよね。

きちんと楽しく生きられるならば、それはそれで申し分ありません。

でも、生きることのしんどさが、楽しさを上回ってしまったときには、少し立ち止まって考えるのもいいでしょう。

この人生のはかなさと、はかないがゆえの重みについて。
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夢も現実(うつつ)も乗り越えて

夜見る夢は、昼間の現実よりおぼろなものだと思ってますか。

明晰夢というものがありまして、夢のなかで、それが夢であると気づいているってことなんですけどね。

夢での体験は、人それぞれとは思いますけれど、ぼくの場合、普通の夢は割と薄っぺらい。
肉体的な実感とかほとんどないんです。

ところが明晰夢のときは違います。

空を飛んだり、壁を突き抜けたり、昼間の現実とは違いますが、体感的なリアリティは強烈です。

たまにしか見れないし、見ているときも、長続きさせるのは難しいのですが、そのとき感じる現実感は、ほかの何とも違うものを感じます。

みなさんも、昼間の現実とは違うリアリティ、よろしければ味わってみてください。
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天国と地獄を生きる

天国へ行ったことはありますか。

それとも地獄はどうですか。

生き地獄はまっぴらご免ですけれど、天にも登る気持ちにはなりたいものですよね。

死んだら天国に行くとか、地獄行きだとか、死んでしまえば何もないんだとか、どういうふうに考えるのも個人の自由なのは当然です。

それで、ぼくは思うのですが、今ぼくたちが生きているこの世界というものが、実は天国でもあり、地獄でもあるんじゃないでしょうかね。

この世界というものを、ただ物質的な空間としてとらえるとき、そこには天国も地獄もありはしないのですが、そこに魂の次元というものを加えてみたとき、ぼくたちの心のあり方次第で、そこに天国や地獄が現れるんじゃないでしょうか。

ぼくたちが生きる一瞬一瞬を、天国にするのも、地獄にするのも、ぼくたちの心次第。

そう考えたら、毎日をうかうかと過ごしてばかりもいられなくなるかもしれませんよね。

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夢と現実のはざまで

ぼくたちは普通、目が覚めているときの現実こそがリアルなのだと、つい思いがちです。

けれど、科学的に言っても、必ずしもそうとは言えないですよね。

大昔のギリシアで、プラトンさんも言ってますけど、ぼくたちは「知覚」したもの、「認識」したものしか、「知る」ことができないのですから、「現実」とか「真実」とかいうものを直接「知る」わけにはいかないんですよ。

とすると、夜見る「夢」にしろ、存在しないものを「錯覚」で見たにしろ、そうしたものと「現実」との境というのは、はっきり分けられっこないってことです。

そういうふうに、夢も幻も現実も、分けることのできないこの世の一部なんだと知るとき、僕たちは時空の四次元を越えて、魂の次元に足を踏み入れることになります。

魂の次元に分け入って、現実からだけではなく、夢や幻からも学んでみようじゃないですか。

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神さまは信じてますか?

神さまは信じてますか?
お化けはどうですか?
それとも、宇宙人は?

ぼくは「宇宙の法則」としての神さまは信じています。

お化けを見たことはありませんが、人はお化けを「感知」する力を持っているのだろうな、とは思います。

宇宙人は、いないとは言えませんよね。今のところ、地球にまで訪れている可能性は低いと思いますけれど。

神さまとか、お化けとか、宇宙人とか、科学では否定も肯定もできないものを、闇雲に信じることはせず、かといって頭から否定するのでもない。

そんな心構えでもって、魂の次元の散策にでかけます。




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